仁太坊
仁太坊(にたぼう、安政4年7月7日(1857年) - 昭和3年1月2日(1928年))は青森県生まれの津軽三味線奏者。本名・秋元仁太郎[1]。津軽三味線の始祖[2]。
にたぼう 仁太坊 | |
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出身地 | 日本 |
ジャンル | 津軽三味線 |
職業 | 津軽三味線奏者 |
生涯
編集仁太坊は明治の初め、北津軽の地吹雪地帯である金木新田(現・五所川原市金木町神原)の、渡し守という最下層の一人息子として生まれた。生まれて間もなく母は他界し、8才の時、天然痘で失明する。流し女芸人から簡単な三味線の手ほどきを受けた時、頼みの父が船から転落死する。11歳で両親を失ったのち、はぐれ瞽女の後をついて回ってその芸を覚え、14歳で三味線弾きとして門付けを始める。津軽地方では門付けをする男性の盲人のことを坊様といったことから仁太坊と呼ばれる[3]。21歳の時に旧習を打ち破った太棹による力強い叩き奏法を生み出し、1人で8人分の芸を演ずる八人芸を創作した[1][2]。
天涯孤独という劣悪な境遇に突き落とされた仁太坊の生きていく道はただ一つ、習って間もない、たどたどしい幼稚な三味線で門付けをすることであった。仁太坊は生きていくために、寝食を忘れて自分独創の三味線に挑戦する。独学だった。創意工夫をし、神がかりの三味線を門付け大道芸で弾く。活力あふれる叩き、その場で即興で弾く神がかり的、即興三味線。「人真似でない俺が三味、汝が三味線」だった。この仁太坊少年の門付け三味線が、後年の津軽三味線だった。
その個性的な奏法が津軽一円に知れ渡り、多くの盲目の少年たちが弟子入りした[2]。 弟子には太田長作坊、嘉瀬の桃などがいて、最後の弟子となったのが白川軍八郎だった。
仁太坊はわら布団の中で言った。「末ばて良くなる仁太坊の三味線コ」。それが今際の言葉だった。[4]
2004年に「NITABOH 仁太坊-津軽三味線始祖外聞」の題でアニメ映画化された。
脚注
編集- ^ a b 仁太坊(読み)ニタボウコトバンク
- ^ a b c 仁太坊祭り太宰ミュージアム
- ^ 幕末〜昭和を生きた津軽三味線の祖 仁太坊(にたぼう、Nitaboh)獅子道、2021年3月8日
- ^ CD「いぶき - 吉田兄弟」解説