大垣城
大垣城(おおがきじょう)は、岐阜県大垣市郭町にあった日本の城(平城)。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれる。
大垣城 (岐阜県) | |
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焼失前の天守と艮櫓 | |
別名 | 麋城、巨鹿城 |
城郭構造 | 連郭輪郭複合式平城 |
天守構造 |
望楼型(1594年築) 複合式層塔型3重4階(1620年改) (RC造外観復元・1959年再) |
築城主 | 伝・宮川安定 |
築城年 | 伝・明応9年(1500年) |
主な改修者 | 氏家直元、伊藤祐盛 |
主な城主 |
竹腰氏、氏家氏、伊藤氏、 岡部氏、久松松平氏、戸田氏 |
廃城年 | 明治4年(1871年) |
遺構 | 石垣、曲輪 |
指定文化財 | 大垣市指定史跡[1] |
再建造物 | 天守・乾櫓・艮櫓(外観復元)・門 |
位置 | 北緯35度21分43.12秒 東経136度36分57.86秒 / 北緯35.3619778度 東経136.6160722度座標: 北緯35度21分43.12秒 東経136度36分57.86秒 / 北緯35.3619778度 東経136.6160722度 |
地図 |
概要
編集宮川安定(安貞)が築いたともいわれているが、築城年代、築城者は特定できていない[2]。宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し、本丸と二ノ丸のみであったという。戦国時代になると氏家直元が大規模な改修をして本格的な城郭としての整備された。伊藤祐盛が4重4階の天守閣を加え、石川氏によって総堀が加えられ、久松松平氏により天守が改修されている。1649年(慶安2年)、 戸田氏鉄の代の改築によって明治に至る姿となった。
歴史
編集中世
編集1500年(明応9年)に竹腰尚綱によって揖斐川(牛屋川)東河岸にあった牛屋に築かれたともいわれ、1535年(天文4年) に宮川安定が大尻に築いたともいわれる[3]。この当時は、牛屋城と呼ばれていたとされている[4]。牛屋川を外堀の代わりに利用し、本丸と二ノ丸のみであった。
戦国時代には大垣城は戦略上重要な地点であったため争奪戦が繰り返され、織田氏、斎藤氏、織田氏と支配権が移り変わった。1544年(天文13年)に織田信秀の攻撃により落城し、織田播磨守(※造酒丞ではない)[5]が5年間城主を務めた。その後、1549年(天文18年)、斎藤氏に攻め落とされて配下の竹越尚光が城主となる。
1559年(永禄2年) に桑原直元(氏家直元)が城主となり、1563年(永禄6年)に城の大規模な拡張を行い、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備された。
近世
編集賤ヶ岳の戦いの後、この地域の支配権を獲得した羽柴秀吉により、1583年(天正11年)に池田恒興が城主とされた。所領は15万石とされる。池田氏以後、大垣城は近世城郭としての整備が進んだ。翌1584年(天正12年)に小牧・長久手の戦いで恒興が戦死すると息子の輝政が継いだが、翌年の1585年(天正13年)には輝政は岐阜城主に転じた。
代わって、1585年(天正13年)には秀吉の甥・豊臣秀次(近江八幡山城)の家老の1人[6]に任命された一柳直末が、大垣城に配されて3万石を領した。
大垣城は1586年(天正13年)11月29日(旧暦)(1月18日)の天正地震の被害をうけて全壊焼失した。
1588年(天正16年)に一柳直末によって[4]、若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時の改築で天守閣が築かれたとされる[2][7]。
1590年(天正18年)の小田原の役で一柳直末が戦死したため、この戦いで功を挙げた伊藤盛景が城主とされ、1599年(慶長4年)に盛景が死ぬと子の伊藤盛宗が跡を継いだ。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には、城主・伊藤盛宗が西軍に属したため、石田三成ら西軍の主力部隊が入城して根拠地となった。その後、西軍本隊は関ヶ原に移動、城内には福原長堯(三成の義弟)らが守将となって残ったが、関ヶ原の本戦で西軍が敗北すると東軍に攻囲され、相良頼房、秋月種長・高橋元種兄弟らの裏切りにより窮した福原は、やむなく西尾光教の仲介で降伏勧告を受け入れて落城した(大垣城の戦い)。そのときの逸話が『おあむ物語』として残っている。
江戸時代に入り、徳川家康は譜代大名として石川康通を城主にした。
1613年(慶長18年)には石川忠総によって総堀が加えられ、さらに後に松平忠良が天守を改修した。『関ヶ原合戦図屏風』(津軽本)や『正保城絵図』には、現在の復元天守とは異なる3重天守が描かれている。
1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田家の居城となった。戸田氏の改修後は、並郭式に本丸と二ノ丸を並べ、その周囲を三ノ丸で囲い、更に外周は惣構としていた。本丸には北西隅に4重4階(3重4階とも)の複合式層塔型天守を上げ、3重櫓1基に2重櫓を3基、二ノ丸に月見櫓など3重櫓を4基、三ノ丸には2重櫓4基、平櫓1基などが建て並べられ、本丸に2つ、二ノ丸に1つ、三ノ丸に大手門など大小5つ、外郭に南大手門など大小7つの門が開かれていた。また、東総門から西総門にかけて、総堀の中の郭を美濃路が抜けていた。
近現代
編集1873年(明治6年)に発布された廃城令により廃城となったが、天守など一部の建物は破却を免れ、1936年(昭和11年)に天守等が国宝(旧国宝)に指定された。しかし1945年(昭和20年)7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失した。
天守は1959年(昭和34年)に、乾櫓は1967年(昭和42年)に鉄筋コンクリート構造で郡上八幡城を参考に外観復元されたが、観光用に窓を大きくするなどの改変がなされた。2008年8月、市民検討委員会が大垣市に木造再建案を提言している[8][9]。
2005年、大垣市は、戦後に総堀が水門川や用水路として残る以外の堀が埋められ、計画性の無い開発により主要道路や大垣駅からは天守より高い建物によって見えなくなってしまったとして、昔の大垣城を復活しようと「大垣城郭整備ドリーム構想」という計画を立ち上げた。2006年以来、検討委員会がたびたび開催されているが、計画は具体化していない[10]。
2006年(平成18年)、指定管理者制度を導入し公益財団法人大垣市文化事業団が管理運営を開始[11]。
2011年(平成23年)2月22日、屋根瓦の葺き替えと外壁改修工事が完了した。この工事で、戦後の再建時に改変された外観が、史料を基に焼失前の外観に近くなるように改修された(工事最終完了は3月4日)[12][13]。
歴代城主
編集
- 出典:岐阜県 編『岐阜県史蹟名勝天然紀念物調査報告書 第4回』岐阜県内務部、1935年、5-8頁。
遺構
編集開発により多くの遺構は失われたが、本丸の石垣および水門川として外堀の一部が残る。
移築建造物としては、市内の民家に本丸乾門が、市内長松町の天理教本眞愛分教会に清水御門が残る。また、大野町西方の民家に、どこの門かは定かではないが城門が移築され現存する。
各務原市蘇原町野口の野口城に、伝加納城移築鉄門とされていた門が各務原市に譲渡され解体調査の結果、大垣城の鉄門であることが分かった。現在修理され各務原市鵜沼宿に展示されている。
大垣公園
編集本丸、二ノ丸址は大垣公園として整備されている。1880年(明治13年) に旧本丸敷地に中学校が設置される計画があったが中止された後に公園として整備された。
復興天守には、関ヶ原の合戦を石田三成・徳川家康両者のモノローグでリアルタイムに追ったムービー(各約30分)など様々な動画コンテンツを閲覧できる。火縄銃や槍、弓を実際に触ることができる展示コーナーもある。2000年(平成12年)に開催された、決戦関ヶ原大垣博では、テーマ館の一つとして使用された。入場料は100円である。
艮隅櫓
編集本丸を取り囲んだ腰曲輪の櫓。本丸とともに旧国宝になったが、戦災で焼失した。戦後鉄筋コンクリート造で復興した。
乾隅櫓
編集鉄筋コンクリート造で復興。鯱瓦が当時の復元に変更された。野面積の石垣は、石灰岩で作られている。
ギャラリー
編集-
外観改修前の復元天守
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改修後の復元天守
脚注・出典
編集- ^ “指定文化財一覧表” (PDF). 大垣市 (2013年3月1日). 2013年5月15日閲覧。
- ^ a b "大垣城". 日本の城がわかる事典. コトバンクより2022年4月9日閲覧。
- ^ 平井聖監修『城 4東海』(毎日新聞社、1996年)
- ^ a b 全国城郭管理者協会監修『日本の城』(碧水社、1997年)
- ^ 『岐阜県史』
- ^ 他は田中吉政(秀次近侍)・中村一氏(近江水口岡山城)・堀尾吉晴(近江佐和山城)・山内一豊(近江長浜城)ら。
- ^ その際に旅の山伏を人柱としたという伝承がある。
- ^ 岐阜新聞
- ^ 大垣城再整備事業(PDF)
- ^ 市長のかがやきメール
- ^ a b “第8章文化振興” (PDF). 大垣市教育情報ネットワークシステム. 2022年2月13日閲覧。
- ^ 大垣市公式サイト
- ^ 4年ぶり雄姿、大垣城改修完了-中日新聞
関連項目
編集- 関ヶ原の戦い
- 大垣城の戦い
- 郡上八幡城 - 戦前の大垣城を参考に模擬天守が建てられた。
- 大垣市墨俣歴史資料館(墨俣一夜城) - 大垣城天守閣の外観を模した資料館。