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膳巴提便

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
膳 巴提便
時代 古墳時代
生誕 6世紀前半?
死没 不明
別名 巴提使
主君 欽明天皇
氏族 膳臣
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膳巴提便(『前賢故実』より)

膳 巴提便(かしわで の はすひ[1]、生没年不詳)は、6世紀前半のヤマト王権に属する豪族

記録

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日本書紀』巻第十九によると、欽明天皇6年3月(推定545年)に百済に派遣されたとある[2]。この時に妻子同伴で半島へ向かったことが、以下の悲劇の原因となった。

「百済の海浜で日が暮れたので野宿しましたが、その際に小児が急に消え失せて行方不明になりました。その日大雪が降り、夜明けになって探すと、の足跡がありました。私はを帯び、甲冑を着て、巌岫(いわおのくき=岩場の洞穴)を探しあてました。

敬受絲綸、劬勞陸海、櫛風沐雨、藉草班荊者、爲愛其子令紹父業也。惟汝威神、愛子一也。今夜兒亡、追蹤覓至。不畏亡命、欲報故來。 (勅を受けて山野に奔走し、風雨にさらされ、草を枕に茨を床にして苦労するのは、子を愛し親の業を継がせようと思うためである。偉大な神はたった一人の子を与えてくれたが、今宵、其の子が亡くなってしまった。跡を追って探しに来た。命をおとすことも恐れず、報復するためにやって来たのだ。) — 訳:宇治谷孟

こう言ったところ、虎は前に進んで、口を開いて飲み込もうしましたが、私は直ぐに左の手を伸ばして、虎の舌をとらえて、右の手で刺し殺して、皮を剥いで還ってきました。」[3]

同年11月に帰国した際にこれらのことを朝廷に報告したと伝えられている。その後の事績については記載がなく不明である。

脚注

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  1. ^ 名前の読みは定かではなく、「はです」と読むべきとする主張もある。例として『国語読本(尋常小学校用)』明治33年度版では後述の「巴提便が虎を倒した話」が乗せられているが、タイトルは「はです虎をころす」である。
    (坪内雄藏 著『國語讀本尋常小学校用』(株)冨山房インターナショナル、2012年復刻版、ISBN 978-4-905194-23-1、p.242-245。)
  2. ^ 『日本書紀』欽明天皇6年3月条
  3. ^ 『日本書紀』欽明天皇6年11月条

参考文献

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関連項目

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